ぐりまの読書日記

読書が好きです。本の感想など。

「円紫さんと私」と私~『六の宮の姫君』北村薫 感想~

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※記事のなかで、
小説の主人公:〈私〉
この記事の筆者のこと:私
と表記しています。
わかりにくいですが悪しからず。

あらすじ
大学四年生になった〈私〉は、出版社でアルバイトを始めた。そこで出会った文豪から、芥川龍之介が、自作『六の宮の姫君』について漏らしたという言葉を聞く。「あれは玉突きだね。…いや、というよりはキャッチボールだ」
芥川はなぜそんな言葉を発したのか。なぜ、『六の宮の姫君』という作品が書かれたのか。
明治、大正、昭和の書物を読み解く、〈私〉の探偵が始まったー。


さて、私事で恐縮だが、私と「円紫さんと私」シリーズとの出会いは、高校時代にまでさかのぼる。
確か、とあるヤングアダルト向けのアンソロジーシリーズに、第一巻の表題作でもある短編「空飛ぶ馬」が収録されていたのだ。
しかし、初読時はなぜか少し古臭さを感じてしまい、私は「円紫さんと私」にあまりはまりきれなかった。
同じアンソロジーのシリーズに、加納朋子さんや米澤穂信さんの短編もあった。このアンソロジーをきっかけに高校時代たくさん読んだのは、むしろ米澤さんや加納さんの作品のほうだった。

そんな米澤穂信さんがミステリ作家になるにあたって、大きく影響を受けた作品が、北村薫さんの『六の宮の姫君』だ、というのは高校時代から知っていた。いったいどんな話なのだろうと、実際気にはなっていた。

そして、「円紫さんと私」シリーズをまともに読み始めたのが大学二年生頃。
私自身に姉がいることもあって、『夜の蝉』を読んだときには大変な感銘を受けたものだけど、その話はまた別の機会に譲るとして。

このときに、一応『空飛ぶ馬』から『朝霧』まで一通り読んだはずなのだが、『六の宮の姫君』の印象はけっこう薄い。
勿体ないことに、あまりに専門的な内容だという印象を受けて、斜め読みしてしまったのだ。
「あーなんか難しかった!」と思って終わってしまった記憶しかない。

そして、大学三年生になり、それ以前よりも少し本格的に国文学を学び始めた私は、
国文学研究というのは、「本が好き」というだけではやっていけない世界なのだな、とひしひしと感じた。
私よりたくさん本を読んでいる人など、まわりには掃いて捨てるほどいて、自信をなくすことばかりだった。
研究の内容は、やってみると、「こんなこと突き詰めて研究して何になるんだろう?」と疑問を抱くようなことが多く、あまり熱心にもなれなかった。
学科の中での人間関係もうまく作れずに、なんだか宙ぶらりんな気持ちで日々を過ごしていた。


そんな三年生の秋頃、ふと『六の宮の姫君』を読み返したのである。


〈私〉の書物探索によって、芥川とある作家との交流の軌跡が描かれていく。その、人と人が交わることの輝き、不思議さ、哀しさ。
芸術というものに表現された、それぞれの作家が最も価値を置くものの違い。
そんなこと一つ一つが、このときに初めて、とても胸に迫ってきて驚いた。
そして、書誌の研究を通して、書かれた作品の意味や作者について、こんなにも深く読み取れるのだ、ということに、私は感動したのだった。

わりと貧乏学生だった私は、それまでどんなに気に入った本でも、自分で買うということをせず、もっぱら図書館で借りるか本屋で立ち読みするかしていたのだが、
このときばかりは「この本は手元に置く価値のあるものだ!」と感じ、珍しく身銭を切って文庫本を購入したのである(と胸を張れるほど大きな額でもなかったとは思うけど…)。

私はその後、結局不真面目な学生のまま、国文科を辛うじて卒業したのだけど、
文学研究の面白さに少しでも触れることができたのは、『六の宮の姫君』のおかげが大きかったなあと今でも思う。


思い出話はこのくらいにして、私が『六の宮の姫君』の中で好きな点を二つ挙げたい。

一つ目は、〈私〉は本当に本が好きなのだということが、隠さず伝わってくるところだ。
考えてみれば、この本、〈私〉が文学史の専門的な内容について語る場面が本当に多いのである。
例えば、物語前半の「死なば諸共」ツアー。
正ちゃんの運転する車の中でも、途中の観光地でも、到着した先のペンションにおいてさえも、〈私〉は芥川龍之介や『六の宮の姫君』にまつわることについて、正ちゃんを相手に延々と語りまくる。(嫌がらずに聞いている正ちゃんもすごい。)

そして、極めつけは6章から7章、8章の途中にかけてだろう。
円紫さんに「探偵」の方向性を示唆された〈私〉が、ただひたすらに、調べた内容について引用し、解釈や推論を述べていくのだ。
この部分では、普通の会話文や情景描写がとにかく少ない。
それまでの巻のような、日常の謎が現れるわけでもない。

先にも書いたように、私も国文科に所属してはいたけれど、不真面目な学生だったし、近代は専門外だったので、
普段、「芥川龍之介が、正宗白鳥が、自然主義がどうしたこうした」なんて文章を読ませられたら、「つまらないーー!」としか思わないだろう。
でも、『六の宮の姫君』に関しては、延々と続く〈私〉の話がとても面白く、スリリングにさえ感じられる。
もちろん、わかりやすく読ませる文章の巧さは前提にするとして、
思うにこれは、〈私〉が、ひいては北村薫さんが、本とか、読書とか、文学のことを本当に好きで、そのことが文章から伝わってくるからなのだ。
だから、何も知らない私でも、こんなに近代文学の謎の話を楽しめるのである。
何かを好きということ、こんなにも突き詰められるものがあるということは、幸せなことだな、と、読んでいて感じる。


二つ目は、物語全体に流れる、優しさというか、慈しみ深さだ。
これは、どこが特にということではないし、他の巻にも共通していえることだと思う。

例えば、円紫さんと〈私〉が語る、「六尺棒」の話。
謎解きを終えたあと、田崎信が〈私〉にかけてくれる言葉。
持って回った〈私〉の話を、冷やかしながら真剣にきいてくれる正ちゃん。

円紫さんを始め、周囲の大人達は、〈私〉に、人生の先輩としていつも誠実に対してくれている。
正ちゃんをはじめとする友人達も、ときに見栄を張ったりすることもある〈私〉を、からかうこともあるけど、いつも優しく見つめてくれている。
そして、物語の中に優しさがあふれているのは、もちろん、作者の北村薫さんが、〈私〉という主人公のことを大切に思っているからだろう。

この小説の中で、〈私〉が見つめる、文学史の中の作家達の人生は、決して優しいものではない。ここに描かれるのは、皮肉な運命に時に翻弄される、孤独な天才たちの姿だ。
そんな謎解きの後で、それでも〈私〉が前を向けるのは、いろんな人たちの優しさに包まれているからなのだなー、と私には思える。


この小説の魅力を他にも挙げていくときりが無いので、ここらで終わりにするけど、いつまでも手元に置きたい、私の大切な本である。