ぐりまの読書日記

読書が好きです。本の感想など。

十二国記『白銀の墟 玄の月』小野不由美 感想 ~辻村深月さん「十二国記と私(小説新潮)」についても※オマケ~

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ついに戴国のお話に結着がついた…!!

とにかく結末が気になって、とばし読みで一通りは読んだものの、まだ気持ちが十二国記の世界から戻りきれてない。
まだじっくり読んだわけじゃないので、読み返せばもっと感じることはあるんだろうけど、
自分の中でも整理をつけるために、つらつら今の感想を書きたいと思います。

※ネタバレや個人的な話をたくさん含みますが、悪しからず。


【あらすじ】
安全な金波宮を旅立ち、偽王の支配する戴へと戻った泰麒と李斎。そこでは、国の保護を失った民達が、懸命に生き延びていた。
かつての驍宗の麾下たちは、阿選の討伐を逃れているのだろうか。そして、驍宗はどこへ消えたのかー。李斎は、隠れ住んだ心ある民達を頼りながら、驍宗が消息を絶った地、文州へと赴く。
そして、泰麒は白圭宮へと向かっていた。六年前、泰麒の角を斬り、玉座を奪った阿選に会うためにー。


【感想の前に思い出とか】
私が初めて十二国記を読んだのは、中学1年生くらいのときだった。
『風の万里』や、『図南の翼』なんかは、最初からのめり込んで、お気に入りの場面を何度も何度も読んだ。
友達と一緒に、「急急如律令!」とか言って使令に下るごっこをしたりしたこともあったなあ。


そんな中で、『黄昏の岸 暁の天』の初読時の印象は、ちょっと薄い。
『風の万里』のような、わかりやすいカタルシスを期待してしまってたのもあるし、
この巻でシリーズの長編は完結するものだと思い込んでいたので、
読み終わったときには、
「あれ?驍宗様は?
あれ?妖魔の跋扈する戴に戻って李斎と泰麒どうすんの??
泰麒が成長して戻ってきたのは良かったけど、これで終わり??」
と、はてなマークで頭がいっぱいになった。

当時、今ほど気軽にネットで検索できる環境にはいなかったけど、
どうやら続編も刊行されてなさそうだし、
まあ、スッキリしないけどこれで終わりなんだろう、と自分を納得させるしかなかった。


それから、数年後に『魔性の子』の存在を知って読んだ。
ホラーはそこまで好きではなかったので、『魔性の子』に対しては、
『黄昏の岸』と対になっているのはすごいけど、
とりあえず悲惨で怖い話、くらいの認識しか持っていなかったと思う。


高校時代に、新潮社から「丕緒の鳥」や「落照の獄」が、ぽつぽつと発表されているのを知ったりして、
もしかして十二国記はまだ終わっていないのだろうか、と、淡い期待を抱きながら過ごした。

病んでいた受験期に、『月の影』を読んで、「私も陽子みたいに強くなりたい」と励まされたりした。

以前はつまらないと感じていた「乗月」や「華胥」が、ふと読み返すと思いがけず胸に迫ってきたり、
『黄昏の岸』もじっくり読むと、水面下の対立の不気味さや、李斎の奮闘や静かな悟りが、じわじわと面白く感じられたりもした。

2012年になると、シリーズが新潮文庫に再編されることが決まって、
「やっぱり戴の話の続きが読めるんだ!!」
と、思ってからが長かったなあ。

既刊が改めて刊行されたり、短編集も出たりはしたけど、
長編については、「来年には刊行予定」とか、「執筆が長引いている」というお知らせが出るばかりで、
だんだんと待つのも辛くなってきて、
もはや「生きてるうちに読めたらラッキー」くらいの境地に達していたけど、
定期的に新潮社の公式ホームページをチェックするのだけは続けていた。


そんなときに「第一稿完成」のニュースがアップされて、あの麒麟便りを初めて見たときは、小躍りするほど嬉しかったものだ(実際に小躍りはしなかったけど)。

私なんかは、リアルタイムで読んでたわけじゃないから、当然もっと長い間待っていた方たちもいるわけで。

だからきっと、刊行日の前日に、仕事中新刊のことが楽しみすぎてニヤニヤしてしまったり、
いろんな本屋さんで、平積みされた十二国記の山を見るたびに、テンションが上がってしまう体験をしたのは、私だけじゃないはず、と信じている。


ーさて。
前置きがめちゃくちゃ長くなったけど、本題に入ろう。


【感想(1,2巻)】
第一章は、過ぎゆく秋の戴国で、荒廃で住む場所を失い放浪する園糸と栗の母子と、謎の男項梁の三人連れから始まる。

彼ら三人は、野宿するために入った山の中で、隻腕の女と少年の二人組に出会う。

見知らぬ二人組を警戒した、近くの里の若者、去思が、あわや少年を傷つけようかというときに、少年は姿を消していたこの国の麒麟、女は瑞州師中軍の将軍李斎であることが明かされる。
そして、母子と一緒にいた男、項梁は禁軍中軍師帥であり、去思は、かつて阿選に反意を示して殲滅された、瑞雲観の生き残りであることも明らかになる。
彼らは、誅伐を逃れ、行方知れずだった泰麒そして驍宗が戻るのを、密かに信じながら生き延びていたのだった…!


こーんな劇的な場面から物語は始まって、
18年の空白期間を感じさせないドラマチックな幕開けに、私は心の中で「きゃー!」と叫びまくっていた。


天の配剤としか言いようのない偶然によって、瑞雲観の残党に出会った泰麒と李斎は、各地の道観のネットワークを頼りに、項梁と共に文州へと旅に出る。

その途上、泰麒は李斎には何も告げず、民の救済のために白圭宮へと向かう。
ここから、病んだ人々の溢れる白圭宮での泰麒の孤軍奮闘と、
驍宗を探しながら仲間を集めていく李斎との、両サイドを描いて物語は進んでいくー。


1,2巻では、泰麒の内面が描かれることはほとんどない。
最初は変わらずに驍宗を慕い、民に誠実に対する様子の泰麒だけど、
宮中に入ってからは、官吏に対して、ときに麒麟とは思えないほどの冷徹な態度を示し、
「天意は驍宗から去り、阿選が新王である」と言い放つ。

この泰麒の冷徹さが、統制を失い右往左往する宮中では痛快にさえ感じられるけど、
あまりに泰麒の内面が見えなさ過ぎて、「新王阿選」というのは、民を救うための泰麒の策略なのか、それとも真実なのか、近くに侍る項梁でさえわからなくなる。

当然私達読者も、「え、驍宗様が王で間違い
ないんだよね?阿選じゃないよね…??」
と困惑させられてしまう。

一方李斎サイドでは、なぜかいきなり土匪の人達が登場していつの間にか仲良くなったり、
いろんな仲間やあやしげな奴らに遭遇したりする。
そうこうしながら驍宗様を探すうち、
「驍宗様が死んでしまった…?」なんていう疑惑も出てきて、
なんとそのまま二巻は終わってしまう。
なんてこった!

それから一ヶ月、私は大変もやもやしながら、3,4巻の刊行を待たなければならなかった。

この間、
「新王阿選」は泰麒の策略なのか、
阿選はなぜ謀反を起こしたのか、
老安で死んだ武将は本当に驍宗様だったのか、
驍宗様が生きているならどこにいるのか、
などの疑問について、私もぐるぐる考えたし、
ネット上でもさまざまな考察が飛び交っていた。


【感想(3,4巻)】
一ヶ月後、待ちに待った3,4巻が刊行されると、前述の疑問の多くには、あっさりと答えが示された。

「驍宗が王だ」と言い切る泰麒に、項梁と一緒に私もほっとして、
「老安で死んだのは驍宗じゃなくて別の武将だった」という沐雨様に、李斎たちと一緒に私もほっとした。
そこからが泰麒の面目躍如だった。

一人、阿選のいる六寝へと忍び込んでみせた泰麒は、
謎の凄腕少女、耶利の信頼を勝ち得ながら、
今度は、拷問を受けているという正頼を探すために、再び六寝へと忍び込む。

このときに初めて、蓬莱から帰還した泰麒が、『魔性の子』を経てこその泰麒であることが、私達読者に明らかになる。

自分が蓬莱に帰ったことで、巨大な惨禍が引き起こされたことを自覚している泰麒は、
大きな災禍を引き起こしてまでも、生き延びて戻って来たからこそ、
何としても民を、驍宗を救わなければならないという、強い意志を持っていたのだ。

麒麟としての本性に逆らって、妨げようとする兵士には暴力を振るってまで正頼を助けだそうとしたり、
王ではない阿選に、強固な意志の力で叩頭したり(血涙を流しながら…!!)。

阿選側の官吏や信頼できない相手に対しては、ものすごく冷徹な態度を見せる泰麒だけど、
常に冷静沈着というわけでもなくて、
正頼を助け出せなかったときや、阿選が恵棟を切り捨てたと知ったとき、巌趙に再会したときとかは、
泣いたり、逆上したり、感情のひだを見せることもある。

それでも、決してその感情に振り回されることなく、
目的を確実に果たそうとする強い意志を持った泰麒の姿を読みながら、
彼を応援しないではいられなくなった。

妖魔を使い、味方する勢力を殺ごうとする阿選の計略にも負けず、泰麒は瑞州の民の救済を、着実に進めていく。


一方李斎サイドでは、1,2巻で登場したあやしげな人たちが、実は密かに阿選を倒そうとしている人達だったとわかったり、
軍とは相容れないはずの土匪を助けて、一緒に王師を倒す胸熱の展開もあったりした。

そんな中、なんと驍宗は自らの手で、閉じ込められていた涵養山を脱し、李斎達のもとに戻ってきた。

こうして、驍宗が戻り、兵力も集まり、阿選を倒す道筋が見え始めた矢先、
阿選が本気で泰麒を、驍宗達を潰しにかかってくる。

泰麒は自由を奪われ、宮中で再び孤立し、
驍宗は阿選軍に捉えられ、李斎や霜元率いる反乱軍は、王師により壊滅状態に陥る。

がーん…。まさかの上げて落とす展開。

絶望的な状況の中、民衆の前で処刑されることになった驍宗をせめて解き放とうと、死を覚悟して鴻基へと向かう李斎達。
その直前、李斎やほかの武将達が、部下に、戴国のその後を託すために、延へ逃げるよう説得する場面があるのだが、
部下たちは、それぞれの理由で説得に応じず、李斎たちと共に鴻基を目指す。
ここで描かれる彼らの主従関係が泣ける。

各々の思いを秘めて、迎える処刑の日の前日、李斎の目に映る七年ぶりの鴻基の景色の美しさが印象的だ。
その美しさと、やがて起こるだろう悲劇との落差に、李斎は自分の無力と無意味さを感じるのだった。


そして、クライマックス、処刑場で、
泰麒が、止めようとする兵士を自らの手で斬りながら、
耶利や飛び出した李斎の援護を受け、
やっとの思いで驍宗のもとにたどり着く場面は圧巻。

泰麒と驍宗は多くの言葉を交わすわけではない。
それでも、六年間、互いが互いを案じていたこと、言葉にならない絆が伝わってきて、胸が熱くなる。

そして、角が折れていたはずの泰麒が、驍宗の前で転変してからは一気呵成だ。
潜伏していた英章、臥信軍が鴻基へと助けに駆けつけ、驍宗達は江州城へ逃げ込む。
その後、彼らは雁国の助けを受け、やがては阿選を討って騒乱を平定するのだった。

✳ ✳ ✳ ✳

なんというか、驍宗と泰麒を無事奪還して江州城に逃げ込んでからのことは、後日譚的な感じでさらさらさらーっと書かれているのだが、
ここの内容が、少ないページ数でめちゃくちゃ濃い。

英章・臥信の、驍宗との再会とか、
延王・延麒と李斎の、金波宮で別れてからぶりの再会とか。
花影が生きてたこともさらっと書かれるし、
巌趙が混乱に乗じて正頼を助け、追撃を防ぐ為にその場に残って今も行方不明だということも、けっこう衝撃的だけどさらさらっと書かれている。

さすが、「堪え忍ぶに不屈、行動するに果敢」と云われる戴の人々だけあって、
泰麒、驍宗は言うまでもなく、臣下についても、あっさり書かれるエピソードの一つ一つがとっても苛烈だなあと思った。


そして、処刑の前日には鴻基の美しさと自分の無力さに絶望していた李斎が、
「過去に積み上げた小さな石が現在を作り、今が未来を作るのだ」と感じるようになったのは感慨深かった。

強大な阿選の力の前に、「全ては無意味だったのか」と絶望したこともあったけど、決してそうではなかった。

泰麒が民の救済のため、白圭宮に乗り込んで、
決死の思いで正頼に接触したことも、
まわりの兵を斬ってまで驍宗のもとへ向かったことも、
李斎たちが土匪と共に州師と戦い、敗れたことも、
死を覚悟して処刑の場に向かったことも、
全てがつながって、このラストがあったのだ、と感じた。


読む前は、天の摂理は正されるけど驍宗と泰麒は死んじゃうんじゃないかとか、
李斎まで生き残ることはないだろうなとか、
けっこうなバッドエンドも予測してはいたのだけれど。

蓋を開けてみれば、驍宗、泰麒、李斎の主要キャラはちゃんと生き残って、
阿選も討つことができて、
その後の驍宗の治世は末永く続くことが予感される終わり方だった。

めでたしめでたし、のはずなのだが、手放しで喜べない感じは残った。

この『白銀の墟』には、たくさんの人物が登場して、その中でたくさんの人々が命を落とした。
鄷都に淵澄、朽桟、余沢、ただ姿を消した、夕麗や静之。

江州城入城後の後日譚は、生き残った人々に再会できた喜びと、命を落とした人々を思う悲しみと、両方を描いている。

物語の途中では何度も不気味に登場した兵士の歌が、
最後には、生き残った李斎、そして去思が死者を悼む歌として出てくる。

そんなこの世の無常を描きながら、それでも「こういうときは、生き残った者の数を数えるんだ」という項梁の言葉が力強い。


そして、園糸と栗が、項梁の安否を知らぬまま、東架で懸命に働く様子が丁寧に描かれたのち、
例によって「戴史乍書」でジ・エンドとなる。

物語が、園糸、栗、項梁の三人が去思と出会うところから始まって、
最後は、去思と項梁の会話からの、園糸・栗の様子で締めくくられる、
この終着の仕方が素敵だなと思った。


✳ ✳ ✳ ✳

…終わったー!!

この長い長い物語を、決して破綻させることなく、18年のブランクにも関わらずテンションを落とすこともなく、
しっかりと終わらせてくださった小野不由美先生には、賞賛と感謝の言葉しかない。

もちろん、欲を言えば、その後の泰麒と驍宗の様子とか、陽子と景麒のこととか、もっと読みたい話はたくさんあるし、
来年の短編集はとっても楽しみだし、
更なる長編も読みたいとは思うけど。

十数年待った物語の結末を、やっと読めたんだなーというのが感慨深くて、今はけっこうお腹いっぱいかも知れない、、、。

魔性の子』の惨禍とか、
『風の海』で王を選ぶときの泰麒の迷いや、叩頭のエピソードとか、
全部、この『白銀の墟』まで見据えて書かれていたのかと思うと、改めて鳥肌ものだった。


【残った気になる謎】
・琅燦は明らかに阿選をそそのかしているけど、敵じゃなかったのか?
・耶利の主公は誰だったの?
・玄管って結局誰?
・泰麒の角が戻ったのはいつ?

流れ的には、耶利の主公と玄管はどちらも琅燦だったとも読めるし、
そうではないような感じもする。
どっちにしろ不可解なことは残るけど、情報が少なすぎて何とも言えない!!

泰麒の角に関しては、素直に読めば、あの膝がっくん事件のときに回復したんだと思われるなあ。
たぶん、あのとき以降驍宗の王気が見えるようになったから、文州に向かって礼をするようになったんだろう。
驍宗の居場所がわかっても、泰麒が白圭宮にとどまり続けたのは、
文州に行くより、宮中にいたほうが、自分にはやれることが多いと考えたからなんだろう。
(もし使令まで戻ってたら、もう何でも有りになっちゃうから、
使令はまだ戻ってきてなかったんだろうな…。)


あと、巌趙に、泰麒のもとに仕えるよう説得した「ある人物」が誰だったのかも、地味に気になる。

それは巌趙に聞けばいいのか!
…と思ったけど、巌趙は最後行方不明になってしまったのだった……と思い出した。

…まあ、来年の短編集で、いろいろ明かされることを信じよう。


とにかくとにかく、本当に面白かった!!


長文、読んでくださり、ありがとうございました。


追記(11/29)
小説新潮」に掲載されている、「十二国記と私」という辻村深月さんの文章を読んだ。
…感動した。
さすが、辻村深月さん!
私たち十二国の民の、泰麒への、小野主上への、十二国への思いを、この上なく真摯に、てらい無く、余すところなく書きあげてくれている。(しかも、新刊に関しては一切ネタバレすること無く、である!!)

辻村深月さんは、私がティーンエイジャーのときには既に、私にとっては憧れの対象だったけど、
同時に、私たちと同じ側に立って、私が夢中になって読んでいた本への憧れを語ってくださることもあって、
親近感を抱かせてくれる作家さんだ。

そう長くはないこの「十二国記と私」という文章を読んで、何度も、「そうだよね!そうなんだよね!」と強く頷いて、
自分で新刊についてダラダラと感想を書いても消化しきれなかった興奮が、やっと昇華された感じがした。

ありがとう辻村深月さん、私の思いをこんなにも的確に代弁してくれて。

『いつかの岸辺に跳ねていく』加納朋子 感想

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あらすじ
護(まもる)の幼なじみ平石徹子は、昔から少し変わった行動をする子だった。見知らぬおばあさんに突然抱きついたり、授業中に急に涙を流したり。自分のおかしな行動の理由を決して人には話さない徹子だが、彼女が誰にでも公平で優しい心を持っていることを、護は知っていたー。
徹子の歩む人生と、彼女の抱える秘密を、前半は護の視点から、後半は徹子自身の視点から描く長編ミステリ。


数ある加納さんの作品のうち、私の中での不動の一位は『コッペリア』だったけど、今回その順位が変動したかもしれない。
そう思えるくらい優しい本だった。

決して自分の悩みを人には話さない徹子と、熊さん的ポジションであり良いやつである護との、「幼なじみ」という関係性が何とも微笑ましい。
また、加納作品には珍しい、根っからの悪役「カタリ」という男が、物語の中で不穏な存在感を発している。

物語終盤で、生きていくこと、未来を知ることを、長い本を読み進めていくことにたとえているのが素敵だと思った。
生きていれば、辛いこともあるし、未来が気になることもあるけれど、それでも、分厚い本のページを一枚一枚めくって読み進めるように、長生きしていればやがて、今は見えなかった未来を知ることができるのだな、と。
そうしていれば、思いもかけなかった嬉しい未来に出会えることだって、あるのかもしれない。
そんな風に思えた。

本人にお会いしたことなんて一度もないけど、「加納朋子さんって、やっぱり絶対良い人だよな」と、私はこの本を読んであらためて確信したのだった。

『いまさら翼といわれても』米澤穂信 感想

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古典部シリーズ6冊目。短編集。
主な時間軸は、奉太郎達が高校2年生の5月から6月、7月ごろ。
あとがきで作者は「本書に収録されている短編は、どれも、いつかは書かれねばならなかったもの」と述べている。


「箱の中の欠落」
ある夜、奉太郎は里志に突然呼び出され、相談を持ちかけられる。里志が総務委員会として関わった生徒会長選挙で、不正があったというのだがー。

冒頭の、記憶についての奉太郎の一人語りを読んで、恩田陸さんの『麦の海に沈む果実』をちょっと連想した。
奉太郎と里志、二人で夜の町を歩く空気感が良い。
こんな夜がきっと、記憶の中に残り続けるという奉太郎の予感は、なんとなくわかる気がする。


「鏡には映らない」
摩耶花は中学時代の同級生との再会をきっかけに、昔、奉太郎の「省エネ主義」によって起こったある「事件」について、疑問を持つようになる。奉太郎の、単なる怠け者のポーズの裏には、何か企みが隠されていたのではないか。
「なーんか、あやしいな。」
摩耶花のささやかな調べ物が始まった。

1巻登場時から、ことあるごとに奉太郎を軽蔑するような態度を取ってきた摩耶花が、その認識を少しだけ改める話。
自分の誤りを、過ぎたこととはいえ、うやむやにせず正そうとするのが摩耶花らしいと思ったのと、逃げ切れない奉太郎が面白かった。


「連峰は晴れているか」
「やらなくてもいいことなら、やらない」がモットーの奉太郎が、珍しく自発的に調べ物をする話。

「他の人のためには力を尽くすが、自分のことには無頓着」という、えるが下した奉太郎についての人物評が新鮮で興味深い。
最後にえるがどんなことを言おうとしたのか、わかるようなわからないような…。


「わたしたちの伝説の一冊」
漫研の多数派派閥のリーダーにしてブレーキ役だった河内先輩が退部し、漫研内部の対立は修復できないほどになっていた。
摩耶花も否応なしに部内の主導権争いに巻き込まれ、ある日、漫画作りに必要なノートが盗まれてしまう。
誰が、何のためにノートを盗んだのか?
そしてその背後にいるのはー?

本書における摩耶花一人称第二弾。
漫研を舞台に繰り広げられる派閥抗争やら尾行やらクーデターは、当事者たちからすればたまったもんじゃないだろうけど、ただ読んでいる側からすればスリリングである。
そして、摩耶花と敵対してるはずの河内先輩がやたら男前。
今後、摩耶花たちの「伝説の一冊」がどうなるのか、楽しみだなあ。


「長い休日」
ある休日、なぜかいつもの調子が出ず、珍しくエネルギーを消費するために散歩に出た奉太郎は、成り行きでえると一緒に荒楠神社の掃除をすることに。
その途中えるに「省エネ主義」のモットーの由来を聞かれた奉太郎は、小学生時代の思い出話を語り始めたー。

話を聞いたえるの、「折木さん。かなしかったですね」という言葉が心に残る。
ショックを受けた小学生の奉太郎に、えるが優しく寄り添おうとしているのを感じて胸が温かくなった。


「いまさら翼といわれても」
夏休み初日、合唱祭に出るはずだった千反田えるが、出番を前に突然姿を消した。
居場所を探す奉太郎と摩耶花たち。
奉太郎は、無事にえるを連れ帰ることができるのだろうかー。

えるの気持ちについては正直、同じような立場になったことがないのでよくわからなかったけど、えるを迎えにいきたいと思う奉太郎の「友達甲斐」は素敵だと思った。
終わり方が何とも米澤作品らしい。


✳✳✳

4巻『遠回りする雛』も、今回と同じく短編集だけど、今回の短編集とは雰囲気が少し異なるように感じた。
なんというか、『遠回りする雛』の方は、ミステリーとしてよくできた話が多くて、たまにほろ苦い話もあり、それはそれで楽しめたのだけど。

一方『いまさら翼といわれても』は、登場人物たちの人となりとか、生き方とか、関係性に関わる話がより多くなって、その分味わいが深まったように思える。

特に奉太郎の省エネ主義については、認識を改めるような話がたくさんあった。
「鏡には映らない」然り、「連峰は晴れているか」然り、「長い休日」然り。
これらを読んで率直に、「なんだ、奉太郎って思ってたよりいいやつじゃん」とにやにやしてしまった。
「仲の良い人を見てるのが一番幸せ」という大日向の言葉ではないけれど、仲良し度の増した四人の様子に、ほっこりさせられた今回の短編集だった。

『図書館の魔女』高田大介 感想

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あらすじ
鍛冶の里に育った少年キリヒトは、師匠の命を受けて、東西の文物が集まる都、一ノ谷に赴く。そこには、王宮の奥にひっそりと、古来からの書物を集積した図書館が聳えていた。この図書館の主として、司書ハルカゼ、軍師キリンと共に、幾多の書物を自在に扱う少女マツリカは、自分の声を持たないながら、その智慧と「言葉」で人々を動かす力を持っていた。
キリヒトとマツリカの間だけで交わされる「指話」と、二人が出会う「地下水道の謎」が、やがて、謀略の交錯する一ノ谷の、そして海峡同盟市全体の運命を左右していくー。
剣や魔法ではなく、「言葉の力」で世界を変える、壮大なファンタジー


緩急の付け方が上手い作品だなと思った。

確かに、よく書評サイトの感想などに書かれているとおり、冒頭から全体の三分の一くらいまではあまり大きな出来事が起こらない。
それに加えて、少々説明が長くて難解で、読み始めは、「なんか難しい本に手を出しちゃったかも」と思う人もいるかもしれない。
でも、上巻の後半あたり、「指話」が登場し始めてからだんだんと物語が動いてくる。
そして、一度物語が動き出せば、片言隻句から陰謀を暴き出す謎解きや、魔導書を巡る文献学講義、智略を尽くした三国会談など、じっくり読ませる部分もあり、
度重なる刺客の襲来、敵の居城での対決など、緊迫してページをめくる手が止まらない部分もありで、
文章の多少の難解さも気にならないくらい、最後まで一気に読み切ってしまえる。

印象的なのは、予期せぬ「事件」が起こる前の、濃やかな情景描写である。
たとえば、マツリカとキリヒトが衛兵を連れ立って、川遊びに出向く場面。

川に泳ぐ魚を見て、無邪気な一面を覗かせる図書館の魔女、
童心に返って魚を獲るキリヒトと衛兵達、
「ほんとうにきれいだねとおもうこと」というマツリカの一言、
ヴァーシャの鳴らす排簫の音色…。

この場面では、そうした何気ない一つ一つの描写に、はっと胸にせまる美しさが宿っている。
直後に待ち受ける「事件」を思うと、この一瞬だけ時の止まったような平穏さが切ない。

川遊びの場面以外にも、ところどころで、ふと時が止まったような濃やかな描写が登場する部分があって、緊迫した場面との対比の付け方が上手だなと思うのだ。


そして、もう一つ私が感嘆したのは、最終章である。

「花が咲けば嵐、人の生に別れは事欠かぬー。」
最終章は、息もつかせぬ脱出劇がようやく一段落したあと、この漢詩の一節から始まって、マツリカらの遠大な旅を数々の別れで締めくくる。
旅が始まる前は、見ず知らずの間柄どころか敵同士だった人々とも、この章に及んでは同じ志を持つものとなって、それぞれの場所で各々の役割を果たすべく別れるのである。

もちろん、最終章の中にも驚きの展開があるのだけど、それすらも数ある別れのうちの一つとして、静かに過ぎ去ってゆく。

そして、最後に待つのは、物語の主人公、マツリカとキリヒトの別れである。
キリヒトが、マツリカと出会ってからの出来事を回想しながら、餞別の詩を読み解く場面がとても良い。
それから、夕暮れの町を港へと駆けてゆくところも。
別れに対するどうしようもない寂しさや、旅立ちへの不安や希望やらいろんな感情が、読んでいてわっと押し寄せてくるのを、最後の一文が爽やかに締める。

この物語はここで完結だと言われても納得できそうな、余韻を感じさせる素敵な終わり方ではあるけど、一方で、まだまだ伏線はたくさん残されていて、物語の行方が気になる気持は膨らむ。

続編「霆ける塔」では、キリヒトは図書館のマツリカのもとへと無事帰ってくるのだろうか。
指折り数えて、続編の刊行を待つ私である。

じわじわ怖い『残穢』小野不由美

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あらすじ

ホラー小説家である「私」は、かつて著作のあとがきで、怖い話を募集していた。そのため、今でも「私」のもとには、ときおり読者からの怪談が届く。
ある日、読者の「久保さん」から届いた一通の手紙には、こんなことが書かれていた。「住んでいるマンションの一室で、誰もいないはずの和室から、畳を摺るような音がするー。」
久保さんの住む部屋で、以前に不穏な出来事があったのだろうか。協力して原因を探る「久保さん」と「私」は、付近に住んでいた人々から聞く不可思議な「怪談」を頼りに、過去へとさかのぼっていく。
次々と現れる、つながりそうでつながらない「怪談」達を前に、合理主義者の「私」は考える。全ては人間の思い込みが生み出す「虚妄」なのか、それとも、何か根源となるものが存在するのか。
そして最後に「私」がたどり着いたのは、思いもかけない場所の怪談だった。


感想

なんというか、じわじわ怖い本。

竹内結子さん主演で映画化もされているが、たぶんこれを映画館で見ても、「ぎゃー!こわ!!」とか「夜寝られなくなる」とかはならないと思う。この小説の怖さはそういう直接的な怖さではない。

書きぶりからして、一人称の「私」というのは、おそらく作者の小野不由美さん自身が投影された人物で、
小説の内容も、おそらく作者の実体験がある程度反映されていると思われる。
(どの部分が「実際にあったこと」で、どこからが「創作」なのかは、推測するしかないのだけれど。)

この「私」というのが、恐ろしく合理的な考え方をするのだ。
超常現象の話を聞いても、その体験をした人の思い込みであることをまず疑う。
ある怪談と別の怪談につながりがありそうに見えるときも、
「この種類の怪談のパターンは各地にあって、たまたま似たような内容の話を、自分たちが勝手に結びつけて考えているだけでは」
と推測する。
怪談蒐集をするホラー作家なのに(いや、だからこそなのかな)、
怪談と向き合うとき、まずはそれを疑うというスタンスを必ずとるのである。

だからといって、「私」は、全ての超常現象を否定する立場に立つわけでは決してない。
「私」は、世の中には本当に超常現象が存在することもあり得ることを前提にした上で、
単なる思い込み(虚妄)と本物の怪異を区別して、最も合理的な説明の仕方を考え出すのだ。
小説中盤に登場する「穢れの伝染」という法則も、
作者が怪異の存在の可能性を前提にして考え出した、たいへん論理的な考え方である。

この、頭から信じ込むわけでも否定するわけでもなく、無駄に怖さを煽ることもない、「私」の淡々とした冷静な語りが、ものすごいリアリティとじわじわした怖さを作り出す。

終盤で出てくる、「語ること自体が怪」という怪談の概念も恐ろしい。

え?
この本を読んでいるということは、私たちもその怪談に触れている時点で、祟られるということ…??

…なんてまじめに考えてしまうくらい、怖さがすぐそばに迫って感じられる小説だ。

何気なくて小さくて貴いもの~「風信」(十二国記『丕緒の鳥』)感想~

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あらすじ
慶国の動乱により、家族を全て失った少女、蓮花は、故郷を追われ隣国へ逃げる道すがら、景王舒覚の死を知る。帰る場所を失い、空っぽになった彼女がそのまま留まった町、摂養では、候風という浮き世離れした研究者達が、ひたすらに暦を作って生活していた。この摂養に暮らす中で、蓮花の心は少しずつ変化していく―。


丕緒の鳥』の他の三編と同じく、この短編の登場人物は、十二国記の本筋と直接関わりの無い、市井の人々。
彼らの体験する、日常の小さなできごと一つ一つが、季節感を持って丁寧に美しく描かれているのが印象的だ。

たとえば、冒頭で、少女が母親や妹と屏風の障子紙を剥がす場面。
もしくは、中盤、懸命に花の蜜を集める蜂たちを、蓮花が静かに見つめる、多幸感溢れる情景。
燕の子が増えていることの意味を知った蓮花が、帳面を抱きしめるしぐさ。

同じ物語の中では、一方で、州師の襲来や、家族の死、故郷の喪失など、悲惨な出来事が淡々と描かれる。
そんな中だからこそ、こういう平穏な日常の些細な場面が、とても愛おしく感じられるのだ。

そして、人々の何気なくて小さくて貴い日常を、支喬たち候風は、彼らなりのやり方で守っている。


講談社ホワイトハート版の『風の万里 黎明の空』のあとがきで、小野不由美さんが、戦いの中で死んでいく命について言及していたのを思い出す。
戦いがあるということは、たくさんの人が死ぬということで、名前も出てこなかった人が大勢いるけれど、彼らにも一人一人、それぞれの人生があったはずなのに…。というような内容だった。

十二国記は、とてもスケールの大きな物語で、どうしても陽子や泰麒といった、王や麒麟たちに関心を向けてしまいがちだ。
でも、この物語の世界には、一国の王とかではなくても、確かにたくさんの人々が存在して、それぞれの暮らしを生きている。
そんな名も無い人々のそれぞれの人生を、しっかりと描こうとしたのが、「風信」であり、『丕緒の鳥』の中のその他の作品なのではないかな、なんてことをふと思った。

「円紫さんと私」と私~『六の宮の姫君』北村薫 感想~

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※記事のなかで、
小説の主人公:〈私〉
この記事の筆者のこと:私
と表記しています。
わかりにくいですが悪しからず。

あらすじ
大学四年生になった〈私〉は、出版社でアルバイトを始めた。そこで出会った文豪から、芥川龍之介が、自作『六の宮の姫君』について漏らしたという言葉を聞く。「あれは玉突きだね。…いや、というよりはキャッチボールだ」
芥川はなぜそんな言葉を発したのか。なぜ、『六の宮の姫君』という作品が書かれたのか。
明治、大正、昭和の書物を読み解く、〈私〉の探偵が始まったー。


さて、私事で恐縮だが、私と「円紫さんと私」シリーズとの出会いは、高校時代にまでさかのぼる。
確か、とあるヤングアダルト向けのアンソロジーシリーズに、第一巻の表題作でもある短編「空飛ぶ馬」が収録されていたのだ。
しかし、初読時はなぜか少し古臭さを感じてしまい、私は「円紫さんと私」にあまりはまりきれなかった。
同じアンソロジーのシリーズに、加納朋子さんや米澤穂信さんの短編もあった。このアンソロジーをきっかけに高校時代たくさん読んだのは、むしろ米澤さんや加納さんの作品のほうだった。

そんな米澤穂信さんがミステリ作家になるにあたって、大きく影響を受けた作品が、北村薫さんの『六の宮の姫君』だ、というのは高校時代から知っていた。いったいどんな話なのだろうと、実際気にはなっていた。

そして、「円紫さんと私」シリーズをまともに読み始めたのが大学二年生頃。
私自身に姉がいることもあって、『夜の蝉』を読んだときには大変な感銘を受けたものだけど、その話はまた別の機会に譲るとして。

このときに、一応『空飛ぶ馬』から『朝霧』まで一通り読んだはずなのだが、『六の宮の姫君』の印象はけっこう薄い。
勿体ないことに、あまりに専門的な内容だという印象を受けて、斜め読みしてしまったのだ。
「あーなんか難しかった!」と思って終わってしまった記憶しかない。

そして、大学三年生になり、それ以前よりも少し本格的に国文学を学び始めた私は、
国文学研究というのは、「本が好き」というだけではやっていけない世界なのだな、とひしひしと感じた。
私よりたくさん本を読んでいる人など、まわりには掃いて捨てるほどいて、自信をなくすことばかりだった。
研究の内容は、やってみると、「こんなこと突き詰めて研究して何になるんだろう?」と疑問を抱くようなことが多く、あまり熱心にもなれなかった。
学科の中での人間関係もうまく作れずに、なんだか宙ぶらりんな気持ちで日々を過ごしていた。


そんな三年生の秋頃、ふと『六の宮の姫君』を読み返したのである。


〈私〉の書物探索によって、芥川とある作家との交流の軌跡が描かれていく。その、人と人が交わることの輝き、不思議さ、哀しさ。
芸術というものに表現された、それぞれの作家が最も価値を置くものの違い。
そんなこと一つ一つが、このときに初めて、とても胸に迫ってきて驚いた。
そして、書誌の研究を通して、書かれた作品の意味や作者について、こんなにも深く読み取れるのだ、ということに、私は感動したのだった。

わりと貧乏学生だった私は、それまでどんなに気に入った本でも、自分で買うということをせず、もっぱら図書館で借りるか本屋で立ち読みするかしていたのだが、
このときばかりは「この本は手元に置く価値のあるものだ!」と感じ、珍しく身銭を切って文庫本を購入したのである(と胸を張れるほど大きな額でもなかったとは思うけど…)。

私はその後、結局不真面目な学生のまま、国文科を辛うじて卒業したのだけど、
文学研究の面白さに少しでも触れることができたのは、『六の宮の姫君』のおかげが大きかったなあと今でも思う。


思い出話はこのくらいにして、私が『六の宮の姫君』の中で好きな点を二つ挙げたい。

一つ目は、〈私〉は本当に本が好きなのだということが、隠さず伝わってくるところだ。
考えてみれば、この本、〈私〉が文学史の専門的な内容について語る場面が本当に多いのである。
例えば、物語前半の「死なば諸共」ツアー。
正ちゃんの運転する車の中でも、途中の観光地でも、到着した先のペンションにおいてさえも、〈私〉は芥川龍之介や『六の宮の姫君』にまつわることについて、正ちゃんを相手に延々と語りまくる。(嫌がらずに聞いている正ちゃんもすごい。)

そして、極めつけは6章から7章、8章の途中にかけてだろう。
円紫さんに「探偵」の方向性を示唆された〈私〉が、ただひたすらに、調べた内容について引用し、解釈や推論を述べていくのだ。
この部分では、普通の会話文や情景描写がとにかく少ない。
それまでの巻のような、日常の謎が現れるわけでもない。

先にも書いたように、私も国文科に所属してはいたけれど、不真面目な学生だったし、近代は専門外だったので、
普段、「芥川龍之介が、正宗白鳥が、自然主義がどうしたこうした」なんて文章を読ませられたら、「つまらないーー!」としか思わないだろう。
でも、『六の宮の姫君』に関しては、延々と続く〈私〉の話がとても面白く、スリリングにさえ感じられる。
もちろん、わかりやすく読ませる文章の巧さは前提にするとして、
思うにこれは、〈私〉が、ひいては北村薫さんが、本とか、読書とか、文学のことを本当に好きで、そのことが文章から伝わってくるからなのだ。
だから、何も知らない私でも、こんなに近代文学の謎の話を楽しめるのである。
何かを好きということ、こんなにも突き詰められるものがあるということは、幸せなことだな、と、読んでいて感じる。


二つ目は、物語全体に流れる、優しさというか、慈しみ深さだ。
これは、どこが特にということではないし、他の巻にも共通していえることだと思う。

例えば、円紫さんと〈私〉が語る、「六尺棒」の話。
謎解きを終えたあと、田崎信が〈私〉にかけてくれる言葉。
持って回った〈私〉の話を、冷やかしながら真剣にきいてくれる正ちゃん。

円紫さんを始め、周囲の大人達は、〈私〉に、人生の先輩としていつも誠実に対してくれている。
正ちゃんをはじめとする友人達も、ときに見栄を張ったりすることもある〈私〉を、からかうこともあるけど、いつも優しく見つめてくれている。
そして、物語の中に優しさがあふれているのは、もちろん、作者の北村薫さんが、〈私〉という主人公のことを大切に思っているからだろう。

この小説の中で、〈私〉が見つめる、文学史の中の作家達の人生は、決して優しいものではない。ここに描かれるのは、皮肉な運命に時に翻弄される、孤独な天才たちの姿だ。
そんな謎解きの後で、それでも〈私〉が前を向けるのは、いろんな人たちの優しさに包まれているからなのだなー、と私には思える。


この小説の魅力を他にも挙げていくときりが無いので、ここらで終わりにするけど、いつまでも手元に置きたい、私の大切な本である。